きのうの夜、空に浮かんでいた満月はスノームーンというらしい。
名前を知ったからか、月の光が少しやさしく見えた。
寒いはずの夜なのに、不思議とこころがほっとした。
ただ月を見上げていただけなのに、
一日分の疲れが、静かに抜けていくようだった。
何も起きていない夜が、こんなにもありがたいものだったとは、
若い頃は思いもしなかった。
若い頃は、
夜は「終わらせるもの」だった。
一日を片づけて、次の日に備えるための時間。
立ち止まって空を見上げるなんて、
考えもしなかった気がする。
痛みをおぼえながら覚えていくこと
最近、まごが鬼ごっこをしていて転んだ。
石にぶつけたらしく、耳たぶを少し切ったという。
大事には至らなかったが、
小さな耳には、なんとも痛々しい傷だった。
転んだ瞬間は、
きっと怖かっただろうし、痛かっただろう。
それでも、しばらくすれば、
また走り出すのだろうと思う。
走って、転んで、痛くて、泣いて。
それでも、また外に出て遊ぶ。
言葉で教えなくても、
体が先に、世界との付き合い方を覚えていく。
痛みは、できれば避けたいものだ。
でも、痛みをまったく知らずに生きることも、
たぶんできない。
節分の恵方巻を巻きながら
スノームーンを見た夜から一日たって、
節分の日に、恵方巻を自家製で作った。
特別な具材を使ったわけじゃない。
家にあるものを並べて、
巻きすを広げ、黙々と巻いただけだ。
昔は、
こうした季節の行事を、
どこか面倒に感じていた気がする。
買って済ませたほうが早いし、楽だと思っていた。
それが今は、
台所に立って手を動かす時間が、
少し楽しい。
うまく巻けたかどうかより、
「今年も節分を迎えたな」と思えること。
それだけで、
十分なんだと思えるようになった。
昔の自分を思い出しながら
ふと、自分の子どもの頃を思い出した。
膝のかさぶたや、手のひらの擦り傷。
治る前に、またどこかをぶつけて、
いつもどこかが痛かった。
あの頃は、
「ケガをしないように生きよう」なんて考えなかった。
痛いのは嫌だったけれど、
それ以上に、走ることや遊ぶことのほうが大事だった。
いつからだろう。
転ばないことが、
一番の正解みたいになったのは。
大人になるにつれて、
痛みを避けるのが上手くなった。
失敗しないように、
傷つかないように。
その代わりに、
思いきり走ることも、
いつの間にか減っていたのかもしれない。
静かな夜と、続いていく日々
スノームーンの夜は、何も語らず、ただそこにあった。
一方で、昼間のまごは、
転んでも、痛くても、全力で世界にぶつかっている。
節分の恵方巻も、
転んだ耳たぶも、
満月の夜も、
全部、同じ季節の中にある。
大きな出来事じゃない。
でも、
ちゃんと季節を感じて、
ちゃんと痛みを知って、
ちゃんと一日を終えている。
それだけで、
もう十分なのかもしれない。
ほっとする気持ちの正体
あの夜、月を見てこころがほっとしたのは、
何も起きていないからじゃなかった。
痛みを知りながら育っていく命がいて、
季節の行事を、少し丁寧に迎える自分がいる。
その流れの中に、
ちゃんと自分も立っていると感じられたからだ。
今日も、明日も、
同じような一日が続いていく。
転ぶ日もあれば、
巻きすを広げる日もある。
そして夜には、
また月を見上げて、
こころがほっとする。
それでいい。
今は、そう思えている。


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